
業界研究フェアの会場

業界研究フェアでの筆者と金久保氏

金久保氏が撮影した天狗池の写真

実は本当に小さな「池」だった

撮影スポットに三脚を立て、一眼レフを
覗く登山者たち
金久保氏はセッションの最後に、趣味の山登りで、日本アルプスの槍ヶ岳にある「天狗池」を見に行った際のエピソードを話してくださった。ある日、駅構内に貼られた日本アルプスを紹介するポスターで、この天狗池を撮影した写真を見かけた。こんなに雄大な湖のような風景が見られるのなら1度行ってみたいと、強く思ったのだという。風がなく澄んだ水が広がる日の天狗池には、槍ヶ岳の頂上が反転して映り込むため、「逆さ槍」ともよばれる。写真の天狗池は、見るからに神秘的な雰囲気をたたえていた。標高は約2,500メートルと高く、普通に登山すれば半日かかる。冬は雪に覆われてしまい、池そのものが姿を消してしまう。夏場の短い期間だけ姿を現す池だ。 ところが、汗だくになりながら、やっと苦労してたどり着いた天狗池を前にして、「写真というのは、嘘がつけるものだなあ」と、金久保氏は思ったという。「池」というだけあって、本当に小さな池だったのだ。「えええ、こんなに小さいの?」と、来る前までに思い描いていた風景とのギャップに驚かされたという。天狗池の水面にカメラを近づけて、角度をうまく調整して、槍ヶ岳の頂上が写るように撮影すると、実際のサイズの数百倍もある雄大な風景が広がっているかのように感じられる写真が撮影できることを、現地に行ってはじめて理解したのだという。 駅で見たポスターと同じような、雄大な印象を作り出す風景が撮影できる特定の岩の上は、有名な撮影スポットになっていた。そこでの撮影を目指してやってきた登山者の一眼レフを設置した三脚が、いくつも並んでいた。 カメラは、そこに存在する世界をそのままに表現するのではなく、現実に存在している世界を切り取る形で、現実以上に美しいと感じさせる別物へと変えてしまうことができる。ポスターによって、その気にさせられ、半日がかりで山に登らされた金久保氏は「悔しい」と思いながらも、考えさせられる体験だったと語った。

現世代の家庭用ゲーム機になって、グラフィックス技術は現実の世界や映画と見まがうばかりの水準にまで跳ね上がった。しかし、それで世界のすべてが表現できるかというと、実際の世界とは、まだかなり大きな差が存在している。
ゲームのグラフィックスに、現実世界に存在する空気感を埋め込むことは容易ではない。今の技術であっても無理なのだ。自然がもつ特有の空気感は、写真になったり、CGになったりした瞬間に失われてしまう。そのため、制作現場の人たちは、ゲームのテーマや、使用するハードの特性を理解しながら、何とかそれに近づけるように、様々な手法を使って努力を積み重ねていく。
このときの表現力は、表現者の「蓄積している現実世界の生の感動の量」に比例してくる。蓄積された感動を引き出しにして、デジタルデータに落とし込むために、何を選んで、何を先鋭化していけばいいのかという視点が作りだされる。より優れたグラフィックスを作り上げる能力を磨くためには、生の感動や感覚から様々なものを削っているゲームのような人工的な刺激を受けるだけでは、ダメだということになる。

金久保氏がセッションで紹介したアニメーション
オリジナルデータは、素早く切り込んでいるが漫然として見える。一方で、アニメータが触っているデータは、素早く切り落としているように感じられる。多くの聴衆が、アニメータが触ったデータの方が短いと感じた。
ところが、金久保氏は、どちらのデータも「時間的な長さは同じ」だと説明した。
アニメータが触っているデータは、刀を振り下ろし始める瞬間にほんのわずかだけ動きを止め、振り下ろす速度は実際よりも素早く、振り下ろしきった瞬間にピタッと腕が止まり、メリハリがある。アニメータが自分の感性で「タメやヒキ」を表現し、オリジナルデータを修正していった結果だという。
しかし実際には、人間はこのような動きをすることはできないそうだ。これほど素早い速度で刀を振り下ろし、これほどピタッと止めたならば、筋肉が耐えきれず骨が折れてしまう。それぐらい、人間にとってみれば、不自然な動きなのだという。
にもかかわらず、不思議なことに、人間は加工した動きでも、人間が実際に行うことができる動きだと感じてしまうのだ。そして、それをより自然な動きとして納得してしまう。アニメータの仕事は、現実の人間には不可能な動きであっても、細かく修正していくことで、自然な動きだと感じさせるような表現を模索する作業なのだ。

生の感覚を蓄積した上で、自分の表現したいことを、ほかの人にわかってもらうようにするためには、どのようにすればいいのかを、懸命に考え、工夫することが求められる。
バンダイナムコゲームスのアニメータは、仕事時間中に、始終自分の身体を動かしている。自分自身の動きを鏡に映して観察し、筋肉がどう動いているのかを確認したりする。
金久保氏は、アニメーションは「動いてなんぼ」という部分があると述べる。だから、現実世界にない動きであろうとも、その動きをユーザが気持ちいいと感じるのであれば、その感覚を追いかけていく。

業界研究フェアの翌日、対談を行った
現実の生の情報の世界と、それを加工したデジタル情報の世界は違う。その間をつなぐ作業は、常に人間の感性を必要とし続ける。モーションを中心としたアニメータの仕事は、制作プロセスが見えにくいため、どうしても一般のユーザからはわかりにくい部分がある。しかし、あるアニメーションを見て、その動きに不自然さを感じないということは、そのゲームのアニメータは、それだけ優れた仕事をやっているということでもあるのだ。
金久保氏は、ゲームのアニメーション制作の現場は、1度作ってみて、うまくできなければ壊し、また作っては壊しを繰り返す地味な作業の積み重ねだと説明する。学校の課題だけでは、作っては壊しという訓練の量が少なすぎるともいう。

結局は生の体験、そして、その情報を加工する訓練を繰り返していくことが基礎になる。アニメータを目指そうという人は、心にとめておいて欲しい。