2011/06/29更新

取材・編集協力/CGWORLD.jp リポーター/宮田悠輔 写真/弘田充

第一線で活躍中のクリエイターやエンジニアの方々のキャリアを通じて、3DCG制作者の育成や学習法を探る本連載。第2回となる今回は、日本のデジタルアニメーションの先駆者として知られる株式会社ゴンゾを経て、現在は株式会社グラフィニカで、アニメーションの撮影監督、および実写のVFXスーパーバイザーとして活躍中の吉岡宏夫さんのインタビューをお届けしよう。吉岡さんは、今年も既に『劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~』や、Perfume『レーザービーム』MVなどの話題作に参加している。前編では、これまでの吉岡さんの仕事歴を紹介する。

インプットを増やす 〜幅広い知的好奇心が意外なところで役立つ〜

アニメーション作品を中心に幅広く活躍されている吉岡さんだが、その原点は少年時代に熱中したアーケードゲームにあるという。

「小学生の頃からゲームセンターに入り浸っていましたね。場末のスナックみたいなゲームセンターに朝早くから行って、自分で台の電源を入れるくらい熱中してました」

吉岡さんが少年時代を過ごした1970年代後半といえば、『ゲームセンターあらし』が象徴するように、アーケードゲームという新たに誕生したデジタル・コンテンツに対して、多くの男児が熱狂していた時期である。吉岡さん自身も『リブルラブル』に熱中していたそうだ。80年代に入ると熱狂の中心は、アーケードからファミリーコンピュータに代表される家庭用ゲーム機へとシフトしていくわけだが、それら家庭用ゲーム機におけるアーケードゲームの移植版のできに満足できなかった吉岡さんは、高校に進学してからも足繁くゲームセンターに通い詰めていたという。ただ、そうした家庭用ゲーム機を通じて、現在の仕事へと繋がる運命的な出会いがあった。

「ファミコンを買いに行ったら、セガ・マークⅢというゲーム機しかなかったんですよ。仕方がないからそれを選び、一緒に買ったゲームソフトが『赤い光弾ジリオン』でした。当時、同名のアニメーション作品がセガのスポンサーで放送されていて、最初はセガの新作ゲームCMを見るのが目的で見ていたんですが、作品自体も凄くハイセンスで、とにかく『格好いい!』と衝撃を受けました。あの時、セガ・マークⅢではなくファミコンを買っていたら、今の自分はいませんよ」

赤い光弾ジリオン』(1987)は、セガ初のメデイアミックス戦略の下にタツノコプロによって制作されたTVシリーズである。そのスタイリッシュな作画とデザインは、今なお多くのアニメファンから高い支持を集めている。

『戦闘妖精雪風』
(c)2002神林長平・早川書房/バンダイビジュアル・ビクターエンタテインメン ト・GONZO
初期の代表作、OVA『戦闘妖精雪風』(2002)。吉岡さんは撮影監督として参加。いち早く、デジタル技術を導入していたゴンゾ・ディジメーション(当時)ならではの、3DCGを用いた空中戦シーンは今なお語り継がれている。

「ご存知の通り、アニメーションの原理は静止画の連続です。1枚絵としては止まっているものを連続させることで動いているように見せるわけですが、これって凄く不思議だと思いませんか?ある意味では相反する存在が組み合わさることで誕生するアニメーション表現の不思議に、僕は取り憑かれてしまいました」

まさに空前絶後の運命的な“アニメーション”との出会いであった。しかし吉岡さんの場合は、そこから美術部に入り作画技法習得に取り組んだり、美大進学を目指したりといった具合に、アニメーション制作を本格的に習得しようという考えには及ばなかったという。

「その後、地元の高校に進学するんですが、そこでは “フリーアート部”という部活に入部して、絵を描いたり、『ニルバーナ』という部紙を作成したりしながら過ごしてました。そんな感じで好き勝手していたため、美大の存在に気付いた時にはもう3年生になっていて、美大へ進学するには手遅れでしたね」

吉岡さんが大学受験のことを忘れてしまうほどのめり込んだ、この「フリーアート部」。その名を聞いただけでは、モダンアートの創作団体のような印象を抱いてしまうが、その活動はイラストレーションやコミック制作から、サバイバルゲームまで、実に多岐にわたっていた。その自由な活動形態が学生たちの創作意欲を大いに湧かせたようで、本家美術部に所属する学生までもが、マンガを描きたいがために入り浸るほどだったとか。アニメーションだけでなく、PC6001mkII(後述)を購入したのをきっかけにコンピュータ・プログラミングもたしなんでいた吉岡さん。そうした、幅広いジャンルの創作活動の経験が、現在の吉岡さんを形作っているようだ。

コミュニケーション力を養う 〜月並みだが、それゆえに重要〜

高校卒業後、吉岡さんは代々木アニメーション学院福岡校へと進学した。

「もうひたすら遊んでいました。ただ、コンピュータ熱は相変わらず高くて、ひたすらバイトして貯めたお金でFM TOWNSを購入したんです。で、その中に入っていたグラフィック・ツールで、いわゆるCGらしいCGを作ったり、簡単なゲームプログラミングで遊んでいましたね」

FM TOWNSといえばマウス操作ができるマシンの走りであり、それまでプログラムやテキストベースによる描画が主流だったグラフィック制作を、より手で描いているような感覚に近づけたマシンといえる。

「それと、FM TOWNSはユーザ開発のフリーソフトや、内容の充実した「Oh!FM TOWNS」という専門誌に加えて、レイトレーシングやモーフィングのソフトが付いてくる“画像処理の鉄人”みたいな雑誌連載もあって面白かったですね。まぁ、書いてあることは全くわからなかったんですが」

クルマを水野晴郎の顔へとモーフィングさせたりして遊んでいただけです、と語る吉岡さんだが、現在携わっている仕事のことを考えると、この経験が今の吉岡さんを形成する1つの“核”として存在しているのではないかと思ってしまう。

FM TOWNSは,吉岡さんにとっての最初のコンピュータではない。前述の通り、それ以前からPC-6001mkIIPC-88と、家庭用PC黎明期に出ていたマシンをその都度購入しては、プログラミングで絵を描いたり、簡単なゲームのプログラムを作ったりしてきた。この“プログラミング”という、コンピュータ・グラフィックスの根幹を、たとえ遊びであっても探求し続けていたことは大きな経験にちがいない。

吉岡さんの学生時代と比較すると、今の時代はハードもソフトも大きく進化している。アプリケーション・ソフトを起動すれば、直ぐに望む結果を得ることができる。しかし、その代償としてアプリケーション・ソフトがもたらす結果の背後にある“原理”を意識したり、学んだりすることは、難しくなってしまった。懐古主義を掲げるつもりはないのだが、コンピュータ・グラフィックスの根幹の部分は変わっていない以上、PCやプログラミングの基礎知識に接しておけば、その経験は後々役立つはずだ。