2010/10/06更新
「僕はレンダリング界のエッシャー」

前回は“サウンドレンダリング”というCGにおける新しい研究分野に焦点を当ててみたが、今回は打って変わってレンダリングの王道にあたる研究の未来を担うHenrik Wann Jensen氏の研究室を紹介する。少しでもレンダリングに興味のある人ならば、1度はJensen氏の名を聞いたことがあるだろう。フォトンマッピング法(Photon Mapping)の考案や、画期的なサブサーフェース・スキャタリング・モデル(Subsurface Scattering)の提案によって、レンダリングの歴史に大きな足跡を残した人物だ。

筆者がJensen氏と知り合ったきっかけは“グローバル・イルミネーション(GI:Global Illumination)”というタイトルのテクニカル・コラムの執筆だった。GIの代表的な手法であるフォトンマッピング法に関して語ってもらうために同氏に連絡をとった。しかしながら、どうも同氏はこのインタビューにあまり乗り気ではないようだった。そして色々と話していくうちに、フォトンマッピング法よりも、むしろこのインタビューの翌月に開催されるSIGGRAPH 2001で同氏が発表するサブサーフェース・スキャタリングという新しい手法が紹介されることを望んでいると気付いた。そこで、GIの次のテクニカル・コラムのタイトルは“サブサーフェース・スキャタリング”にすると約束し、そのなかで同氏が考案した新しいモデルを紹介した。

正直なところ、この時点では筆者は未だJensen氏が考案したモデルの真価を掴んでいなかったといえるのだが、いざSIGGRAPHに参加してみると、エレクトロニックシアターで流された映像のインパクトは実に大きく、“サブサーフェース・スキャタリング”“トランスルーセント”という言葉は、SIGGRAPH 2001のトレンドワードとなった。その時筆者の脳裏に鮮明に浮かんできたのが「僕がライティング技術を使ってやろうとしていることは、ちょうど絵画においてエッシャーがやったことと同じだ」という同氏の言葉だった。後述するように同氏が考案したサブサーフェース・スキャタリング・モデルは、数学的にはトリックともいえる推論のうえに成り立っている。しかし、それまで敷居が高いと思われてきた新しいタイプのリアリズムを、人間の視覚を十分に満足させるレベルで比較的手軽に実現できるようにしたことの意義はいかばかりか大きかった。筆者の勝手な解釈かもしれないが、同氏のモデルは、CG技術というものが果たすべき役割の本質をうまく示唆しているように感じられたのだ。

複雑な方程式(ラジオシティ法) VS. 直感的な幾何学モデル(MCRT)

デンマーク出身のJensen氏は、学生時代をデンマーク工科大学(DTU:Danmarks Tekniske Universitet=the Technical University of Denmark)で過ごした。CGと出会ったのもこの時期で、フォトリアルなライティング技術であるグローバル・イルミネーション(GI: Global Illumination)を研究テーマに選んだ。GIの計算ではシーン内の光の散乱をシミュレートする必要があり、特に重要なのは、光源から色を算出する地点(レンダリング点)に直接到達した光(直接光)の影響だけでなく、光源を発してシーン内の他の地点で散乱を繰り返した光(間接光)の影響も考慮してレンダリング点の色を算出することだ。

具体的にはレンダリング方程式というものを解き、このような光の挙動を物理的に正確に算出するのだが、その解法は大きくは“ラジオシティ法”と“モンテカルロレイトレーシング法(MCRT)”の2種類に分けられる。ラジオシティ法では、色を算出する領域をさらに細かい領域に分割し、これら小領域間での光の受け渡しを記述した連立方程式を解いて間接光の影響を算出する。これに対してMCRTでは、レイトレーシング法のアプローチを用いて間接光の影響を算出する。レイトレーシング法では、光源を発した光がレンダリング点で反射されて視点に到達するまでの光の経路を視点から逆追跡する。直接光だけを考慮するレイトレーシング法では、光源を発した光がレンダリング点に到達するまでの光の経路が一意に決まる。しかし、間接光も考慮するレイトレーシング法となると、光源を発したのち、シーンの様々な地点で反射されてレンダリング点まで到達する、ありとあらゆる光の経路を算出しなくてはならない。そこで視点から光の経路を逆追跡する際に、モンテカルロ・サンプリングというランダムなサンプリング法を用いて“ありとあらゆる光の経路”を近似的にカバーしようというのがMCRTの基本的な考え方だ。

Jensen氏はラジオシティ法の研究で知られる研究室に所属しており、それゆえに当初の研究テーマはラジオシティ法だった。しかし、複雑な方程式の解析を必要とするラジオシティ法に同氏はあまり魅力を感じることができず、逆にMCRTに興味を抱くようになった。光の振る舞いと直感的にコミュニケートできるMCRTは、同氏をすっかり魅惑したようだ。様々なプログラムを作成し、その“直感的な幾何学モデル”の可能性を探るうちに、同氏は克服すべき問題点も見い出していった。そして、その解決法として編み出されたのがフォトンマッピング法だった。

フォトンマッピング法の考案と、産業界との確執

フォトンマッピング法
(コースティクス・フォトン・マップ:Caustics Photon Map)


コースティクスを生成する光の経路は、視点からのレイ(光線)を用いたのでは捉えにくいため、光源から放ったフォトンを用いてシミュレートし、フォトンが物体表面に運び込んだ光の色や明るさをフォトンマップとして記録する。最終レンダリングは視点からのレイを用いて、フォトンマップに記録されている情報を読み取りながら行う。このようにコースティクスの作成を目的としたフォトンマップは、コースティクス・フォトン・マップとよばれ、コースティクスが発生する領域に蓄えられたフォトンを記録している。画像はコースティクス・フォトン・マップを用いて、コースティクスの効果を物理的に正確にレンダリングした結果を示している。

それまでに考案されてきたMCRTのアルゴリズムでは非常に困難だった表現に、コースティクス(集光模様:机の上に置かれたガラスのコップの底などに現れる模様)というものがあった。コースティクスは、比較的小さな光源を発して鏡面反射や屈折を繰り返したのちに、物体表面上に達した光によって作り出される。このような複雑な光の経路を、視点方向からランダムに飛ばしたレイ(光線)をガイドにして見つけ出し、逆追跡できる可能性は非常に低いからだ。このコースティクス表現を容易にしたいという動機が、Jensen氏によるフォトンマッピング法考案の直接のきっかけとなった。

コースティクスを作り出すような光の経路は、視点方向からではなく光源方向から追跡した方が圧倒的に捉えやすい。そこでフォトンマッピング法では、その第1段階で光源から“フォトン”とよばれる光の粒子を飛ばして追跡し、物体表面と交差した地点において、フォトンが運び込んできた光の色や明るさを記録する。この記録をフォトンマップとよぶ。

第2段階では、視点からレイを飛ばし、フォトンマップに記録されている情報を読み取りながらレンダリングを行っていく。光源方向から光のパーティクル(粒子)を飛ばして追跡する、という考え方はこれまでにも存在していた。これと比較して、フォトンマッピング法は、レイトレーシング法を用いた最終レンダリング(第2段階の工程)に最適化したフォトンのコンセプトや、フォトンマップの構造を設定している点が大きな特徴で、コースティクスの生成のみならず、MCRTの効率化にも活用できる。また、この手法がきっかけとなって、前処理とレンダリングという2段階からなるレンダリング手法が急速に広まっていくことにもなった。フォトンマッピング法は様々な意味で、フォトリアリスティックレンダリングの歴史に大きな足跡を残すことになったのだ。

フォトンマッピング法
(グローバル・フォトン・マップ:Global Photon Map)

フォトンマッピング法は、グローバル・イルミネーションの計算の効率化にも活用できる。この目的で用いられるフォトンマップは、グローバル・フォトン・マップとよばれ、シーン全体に蓄えられたフォトンを記録している。最終レンダリングでは、この記録を参照して間接光がおよぼす影響を計算する。上画像は、グローバル・フォトン・マップを視覚化したものである。下画像は、このグローバル・フォトン・マップを用いて、グローバル・イルミネーションの効果(間接光がおよぼす影響)を加えてレンダリングした結果を示している。

Jensen氏はもともと、CG技術の健全な発展には理論を作り出す側と、それを実装する側との密なコミュニケーションが欠かせないという認識を強くもっており、自らが実装する側の立場に立ってみることにも大きな意義があると考えていた。それゆえ博士課程の修了と同時に、mental images社という、当時新たなレンダリングソフト(メンタルレイ)の開発に着手していたドイツの会社に加わり、フォトンマッピング法のメンタルレイへの導入を手がけた。しかし、mental images社はフォトンマッピング法を同社の特許製品とすることを力説し、それに断じて同意できなかったJensen氏は同社を去ることになった。このハプニングは同氏に理論と産業とのコラボレーションに対する大きな挫折感を味わわせることにもなったようで、その後しばらく、同氏は理論的な研究に専念することになった。