2010/10/06更新
Pat Hanrahan氏との出会いと、新たな手法の考案

mental images社との決別を期に、Jensen氏はアメリカに渡り、まずはPostdoctoral Researcherとして1年間MIT(マサチューセッツ工科大学)に在籍、その後スタンフォード大学のPat Hanrahan氏の研究室で学び始めた。Hanrahan氏との出会いはまさに、サブサーフェース・スキャタリングに代表される、physically based rendering に対する“開眼”を意味していたという。そしてこの出会いは、CGレンダリングの歴史を揺るがす新たな手法の考案へとつながっていった。

フォトンマッピング法を考案した直後から、Jensen氏は自然物の表現に強い関心を抱くようになった。雲、霧、炎や煙といったように自然のメカニズムを象徴するような物体は、ボリューメトリックな(体積を感じさせる)表現を必要とするものが多い。そこで、フォトンマッピング法の考案から2年後の1998年には、フォトンマッピング法をボリューメトリックな表現に応用したボリューム・フォトン・マップ(volume photon maps)という手法を発表した。

フォトンマップング法(ボリューム・フォトン・マップ:Volume Photon Map)

Jensen氏は1998年にPer Christensen氏との共著で、フォトンマッピング法の考え方を雲や煙などに代表されるボリューメトリックな物体のレンダリングに応用したボリューム・フォトン・マップを発表した。画像は、空や山肌の表現にボリューム・フォトン・マップを活用して、昼・夕方・夜の自然の景観を物理的に正確にシミュレートしたレンダリング結果を示している。

ボリューム・フォトン・マップは非常に汎用性の高い手法だが、この手法をもってしてもなかなか効率的に表現できないものに、大理石、ミルク、人間の肌などに代表されるような“トランスルーセント(半透明)”な物体の質感があった。これらの質感は、物体表面から物体内部に入り込んだ光が、物体内部で散乱を繰り返したのちに、再び物体表面から物体外部に向かって出ていくことで作り出される。このような光の挙動を“サブサーフェース・スキャタリング”とよぶ。物体表面上の反射は比較的シンプルな関数によって表せる場合が多いのだが、サブサーフェース・スキャタリングに関しては、シンプルな関数で表すことは至難の技とされてきた。なぜなら、サブサーフェース・スキャタリングの場合には、物体内部での光の挙動を表す物理方程式(RTE :Radiative Transfer Equation)を解く必要があるからだ。ただし、物体内部での散乱を1回に限定したサブサーフェース・スキャタリング(シングル・スキャタリング:single scattering)に関しては、前述の物理方程式をうまく解いて関数化することに成功した論文が1994年にHanrahan氏らによって発表されている。Jensen氏はこの論文から大きな影響を受けたようで、トランスルーセントな質感をボリューム・フォトン・マップのようなシミュレーション的なアプローチではなく、シンプルな関数によって表現することを考えるようになった。これがサブサーフェース・スキャタリングを表現するための新たな手法の考案へとつながっていったのだ。

エッシャー的発想が生んだダイポール・モデル

サブサーフェース・スキャタリング
左:シングル・スキャタリング(single scatrtering)
右:マルチプル・スキャタリング(multiple scattering)

サブサーフェース・スキャタリングの計算は、物体内部で1度だけ散乱するシングル・スキャタリングと、物体内部で複数回散乱を繰り返すマルチプル・スキャタリングに分けて考えられる。伝統的なレンダリング手法を用いると、マルチプル・スキャタリングの計算は、シングル・スキャタリングの計算よりもはるかに複雑で計算負荷が重くなる。Jensen氏の大いなる功績は、このマルチプル・スキャタリングの効果を近似する、非常にシンプルで直感的にわかりやすいモデル(ダイポール・モデル)を考案したところにある。

Jensen氏が目指したのは、物体内部でのいかなる回数の散乱にも対応したサブサーフェース・スキャタリング・モデルだった。前述のように、物体内部で1度だけ散乱するサブサーフェース・スキャタリングに関しては、すでにHanrahan氏らによって関数化されており、Jensen氏もこれをほぼそのまま用いる意向だった。問題は物体内部で複数回散乱するサブサーフェース・スキャタリング(マルチプル・スキャタリング:multiple scattering)を関数化することで、Jensen氏の実質的なチャレンジは、この問題の解決方法を探り出すことだった。

Jensen氏がまず着目したのは“散乱成分で満たされた領域内で散乱を繰り返した光は、やがて方向性を失ってどの方向にも均一に散乱されるようになる”という定理だった。この定理を物体内部での複数回の散乱に適用すると、(“方向”に関する変数を取り除くことができるので)前述した物理方程式(RTE)を大幅に単純化することができる。このように単純化された物理方程式は、物理シミュレーションの分野などで一般的な解法を用いて解くこともできる。

ダイポール・モデル(Dipole Model)

ダイポール・モデルでは、光が入射した地点の真下と真上に正と負の仮想的な点光源を配置する。ダイポールとは、この1組の仮想的な点光源のことを指している。物体内部に入り込んで散乱を繰り返した光がレンダリング点(光が物体外部に出ていく地点)に作り出す効果は、ダイポールがレンダリング点に作り出す効果によって近似できる。

しかしJensen氏が目指したのは、あくまで複雑な微分方程式を解析することなく、前述の物理方程式の解を得るという方向性だった。そんな折、偶然出会ったのが医療物理学の分野で発表された1つの論文だった。この論文は、散乱成分で満たされた領域が無限に広がっている場合には、前述のように単純化された物理方程式の解が領域内の1つの仮想的な点光源によって近似できることを示していた。まさに目から鱗のような問題解決の糸口を掴んだわけだったが、サブサーフェース・スキャタリングの場合には、領域が無限遠に広がっているわけではなく、片側が物体表面で閉ざされている。そこでまずは医療物理学の論文に書かれているとおりに、物体内部に仮想的な点光源を配置し、物体表面上でエネルギー保存が成り立つように、物体外部にもう1つ仮想的な点光源を配置した。このように配置された1組の点光源(ダイポール:Dipole)は、前述の物理方程式の解を近似することができた。結果的には、これら1組の点光源が放つ光で、マルチプル・スキャタリングが作り出す光の効果を近似できるというのが、今日一般的に“ダイポール・モデル”とよばれているものである。

サブサーフェース・スキャタリングの効果

左画像はサブサーフェース・スキャタリングの計算を行わずにレンダリングした人間の肌。右画像はJensen氏が2001年の論文で考案した、サブサーフェース・スキャタリング・モデルを導入してレンダリングした結果で、左画像と比較してリアリズムが大幅に向上している。

ダイポール・モデルは数学的にはあたかも“手品”のような推論によって導き出されているのだが、実際にトランスルーセントな質感をもった物体を計測した結果と比較してみると、その誤差は非常に小さい。なによりこのモデルを用いてレンダリングした結果は目を見張るようなリアリズムを備えており、CGの見地からすれば、これこそがダイポール・モデルの正当性を実証しているといえる。直感的な幾何学モデルが導き出したグラフィカルな“正しさ”は、まさにJensen氏がいうところの“エッシャー”的なアプローチの真髄だといえるのだろう。


後編では、ダイポール・モデル考案以後のJensen氏の活躍に加えて、同氏の研究室に所属する日本人博士学生、蜂須賀 恵也氏の活躍についても紹介する。蜂須賀氏の目に、アメリカのCG研究の実情はどのように映っているのかについてリポートする。また、映画「AVATAR」の制作で知られるWeta Digital社と、Jensen氏との協力関係や、同氏が開発に参画しているKeyShotという市販のリアルタイムGIツールについても紹介する。1度は理論と産業とのコラボレーションに対する大きな挫折感を味わったJensen氏が、その後、どのような産業との新たな融和を実現しているのかをお伝えする。

レンダリング界のエッシャー ~後編~