2011/07/22更新

リポーター/小幡英司

1994年の設立以来、優秀なクリエイターを輩出し続けるデジタルハリウッド。社会人経験を経てデジタルハリウッドで学び、2000年のSIGGRAPHエレクトロニックシアターで入選を果たした優秀な映像クリエイターであり、また、たくさんのクリエイターを育てる立場として、現在、デジタルハリウッドで3DCGの教鞭をとる山本浩司先生に、ご自身の体験からクリエイターになるために大事なことをお伺いしました。

芸術に憧れつつも、地元の商社に営業職で就職

--このインタビュー記事の読者には、クリエイターを目指している学生の方もいらっしゃると思うのですが、どんな学生時代だったのでしょうか。

小さい頃から絵は描いていました。物心ついた頃から、アンパンマンやドラえもんの絵などを描いていましたね。絵が上手く描けないと、自分で納得できない子だったし、上手く描くと親や友達が喜んでくれたので、繰り返し繰り返し描いていたんです。

一方、ぜんぜん勉強はしなかったですね。小中学生の頃は普通の成績でしたけど、高校に入っても、ろくに勉強せずに遊び呆けていたので成績は悪かったです。それこそ、高校に進学したものの「勉強なんか、かったるい」という、ありがちな状況でした。美術の成績は良かったのですけど。高校卒業後は、それこそ普通に地元の大学の法学部に通うことになりました。美大に進まなかったのは、地方なので「美術で食っていけるものか、美大、芸大なんかありえない」という考えがまかり通っていたからです。大学に入学してからも、休みの日には、スケッチブックと鉛筆をもって近くの公園に行って、美大生のように風景画を描いたりしていました。今思えば、それは、憧れとか理想とか夢だったんだと思います。

--大学を卒業した山本さんは、「うちの会社で営業をやりなよ」と声をかけてくれた地元の医療系の商社に、営業職で就職しました。

ここでも、僕の好きな芸術に関わる仕事に就かなかったのは、「仕事は仕事、趣味は趣味」という保守的な空気に僕自身も飲まれていたからだと思います。今思えば、人生で最もつらい時期だったかも知れません。たとえば、営業担当である病院の先生から「山本君、ちょっと、ここ汚れているんだよね」と言われれば、「ああ、そうですね」では済まないので、全部綺麗に掃除するわけです。「今度の日曜日は、引越しでねぇ」と言われれば、当然日曜日に手伝いに行くわけです。こういう雑用は、営業マンの仕事ではないので、本来はやらなくても良いんです。でも、僕が担当している病院の関係者から依頼されたことは、むきになって何でもやっていました。ドラマみたいな話なんですが、そうすることで少しずつ商品を買ってもらえたんです。これが、営業の成績にもつながっていったんですけどね。

結局、営業という仕事は、僕には向いていなかったのだと思います。お客さんに、僕が作ったわけでもないのに「これは、いい製品ですよ」と言って売るのに違和感を覚えたんです。でも、中途半端なまま辞めたくなかったので、自分で納得できる形で、けじめをつけて辞めたかった。逃げるように辞めると「あの時、僕は逃げた」という歴史が心に刻まれて、あとあと必ず引っ張るだろうと思っていました。そして、社内の売り上げ向上キャンペーンの際にランキング1位になれたとき、これで退職できるという思いに至りました。

向いていないと思う仕事でも、頑張ることで目に見える成果が出せたのは、大きな自信になりました。「自分の頑張り次第で、色々なことが変えられる」ことがわかったのは、良い経験でした。

デジタルハリウッドでCGを学び、SIGGRAPHに入選

--会社を辞めて、芸術の仕事を目指したときに、何故CGクリエイターを選んだのでしょうか。

仕事を辞めた後、美術系、芸術系の仕事をしたいと漠然と思っていたのですが、23歳という当時の僕の年齢を考慮すると、のんびり技術を身に付けている余裕はありませんでした。もし僕が、今から彫刻や油絵を始めると道具の使い方から覚えなくてはいけないので、すごく時間がかかると思ったんです。何か技術を身に付けるのに効率の良い方法がないかと思っていたときに、ふらっと立ち寄った本屋で手にしたのが『CGクリエイターになろう』というデジタルハリウッドの杉山学長が書いたムック本でした。パッと見てすぐ買って家に帰りました。CGクリエイターは面白い、コンピュータを使えば、すごく効率よく技術を身に付けられると思って、すぐに上京してデジタルハリウッドへの入学を決めました。当時はとても高価だった、シリコングラフィックス社のO2(オーツー)というコンピュータを60台も入れていたのは、当時、デジタルハリウッドだけでした。それでも学生が300人いたので、全然足りなかったですが。

1年制の学科に入って半年たった時点で、会社の採用担当者が優秀な人材を探しに来る時代だったので、就職先はあったのですが、僕は更に1年間学校に残り、マスターズクラスに通いました。マスターズクラスは、選抜された30名だけが進めるのですが、O2が1人に1台、24時間好きなだけ使えるという、夢のような環境でした。マスターズクラスに入った連中は、1年間の勉強でそれなりに技術を身に付けているのに、更にもう1年勉強しようという、すごい人ばかりでした。今では、責任あるポジションに就いている人も多く、そうそうたる顔ぶれですよ。

2000年に卒業制作でショートアニメーション「小虚庵」を作ったんですけど、これがSIGGRAPHのエレクトロニックシアターに入選しました。映画「タイタニック」のメイキング、ナムコ(現在のバンダイナムコゲームス)の「鉄拳」のムービーに続いて、僕の作品が上映されたんです。僕の作品でみんなが大笑いしてくれて、もう鳥肌が、ぶわぁーとたちましたね。こういう大きい賞を取ると、いろいろな会社から「あの学生を紹介してくれ」って声がデジタルハリウッドにかかるんです。

SIGGRAPH2000のエレクトロニックシアターに入選した「小虚庵」

人々を魅了する作品を作っていれば、ちゃんと人の目に留まる。クリエイターは、そうあるべきだと今でも思います。僕も、いろんな会社から声をかけていただいて、小さい頃から好きだったという理由などから、ナムコに入社することにしました。

ナムコに入社し、若手ながら新人研修も担当

--長年の夢であったクリエイターの仕事をナムコで始めることになるわけですが、どのようなお仕事をされていたのですか。

ゲームの会社ですから、皆さんよくご存知の各種レースゲームなどでデザインを担当していました。そういった日常業務に加えて、SIGGRAPHに入選したことが評価されて、入社2年目には、新人研修でCGの講習をまかされました。たぶん若手に任せるのは異例なことだったと思います。これが人に何かを教えるという教員人生の始まりだったんですね。

研修に充てられるのは限られた短い期間ですから、最終的には、いかに必要なツールだけを効率よく教えるか、ということに注力するようになりました。「他のツールのことはいっさい考えなくて良い。このツールのこの部分を覚えろ。そうすれば、お前のイマジネーションは発揮できるから」といって教え込むのです。そうすると面白いことに、彼らは、もともと才能のある連中でしたから、全員がツールを使いこなして、レベルの高い成果を出せるようになりました。

今でも同じなんですが、「才能の扉を開けていく」という感覚ですね。学生たちは、色々な才能を隠しもっていて、探り出すのが面白いんです。たとえば、絵を描かせると上手いとは言えないような子が、モーションの授業では、もの凄く写実的な動きを付けたりするんです。理由を尋ねると「学生時代に部活動でスポーツを頑張ってやっていました」とかって話しで、筋肉の動き方がわかっているんですね。こういう子は、モーションデザイナーに決定ですよ。得意な分野を強めていく感じですね。CGっていうのは、何もない3次元空間に形を作って、質感を付けて、光を当てて、時間軸を進めて、動きを与えて、といった神様が世界を創造するような行いを、1つ1つ積み重ねることで作られるんです。沢山のアーティストが得意分野の仕事を分担して、みんなで協力することで、1つの作品ができあがります。だから、1個人が万能である必要はないんです。

その後、パックマンの続編の「パックンロール」や「ガウストダイバー」のプロジェクトに参加していく中で、アートディレクターという、ゲームのビジュアル面とそこに参加するデザイナー達を総合的に管理する立場になりました。このポジションは、他のメンバーとの意思疎通や、円滑に作業を進めるための環境作りが重要になりますが、そこで活躍してくれたのが新人研修などで指導した教え子たちでした。彼らと私にはすでに信頼関係が構築されていたからです。他のプロジェクトの方から見れば、抜群に仲の良いチームに見えたでしょうね。

クリエイターから講師への転身

--多くの人が憧れる会社で大きなプロジェクトを任され、昇進し、と順調なときに2度目の転機が訪れます。なぜ、講師になろうと思ったのでしょうか。

実は2004年頃から、会社勤めと並行して、土日にデジタルハリウッドで講師として教え始めていました。その頃から、進むべき方向に迷い始めていて、ゲーム会社に勤め続けるのか、他にどんなことができるのか、自分の考えをまとめるためにも、講師をやって刺激を受けてみようと。教育の現場では、ちょっとしたきっかけで能力が開花して、ブレイクする学生が出るわけですが、その姿を見ることでアーティストとして刺激を受けられるんです。初心に帰るという意味も強かったのだと思います。

2007 年にプロジェクトが一段落して、次は、ディレクターに昇進という話も合ったのですが、大企業の意思決定におけるプロセスと速度に疑問を感じていたのと、デジタルハリウッドでの教育的な仕事の方に、より魅力を感じたので、そちらの道を選びました。

--今後は、どのような活動をされるのでしょうか。

これまで、デジタルハリウッドの本科は1年制だったんですが、今年度から2年制が始まりました。加えて2009年から、クリエイティブ・ラボという以前のマスターズクラスと同じような、優秀な学生を選抜するクラスを復活させています。このクラスに参加する学生は、全員SIGGRAPH入選を目指すぞって言ったら、本当に全員入選しました。

他には、クリエイターズオーディションというイベントを年に数回開催しています。各クラスの優秀な学生を集めまして、制作物を見ていただくんですが、前回は116社の採用担当者が集まりました。就職難なんて嘘みたいな世界ですね。クリエイターズオーディションに出る学生は、優秀な子ばかりなので、ほぼ100%就職が決まります。

僕個人の活動としては、今年度から、クリエイターの仕事を復活させようと思っています。もう動き始めていて、たとえばiPhoneやiPadのアプリ開発に挑戦しています。ゲーム会社での経験があるので、何をやれば良いかはわかっています。それにかつての教え子達が協力してくれるんですよ。良い循環ができているんですよね。教育と制作は、僕にとっては切っても切れないものです。

必要なのは、モノを作る感覚、人に見てもらう経験、忍耐強さ

--これからクリエイターを目指そうと思う人は、何をやっておいたら良いでしょうか。

まず大事なのは、絵を描くなどの経験からセンスを磨くことです。落書きでもイラストでも、粘土を使った造形でも良いし、ぬいぐるみを裁縫で作るのでも良いと思います。モノを作る感覚が大事なんです。また、それを誰かに見せて喜んでもらう経験も必要です。今どきの学生たちは、否定される経験を必要以上に恐れ、友人の作品を講評するという他人への関与も嫌がります。自分自身で完結させようとする傾向が強いですね。誰かに見せて、フィードバックをもらい、それを次の作品に活かすことで人は成長していきます。

それと、この業界で10年以上やってきて言えるのは、センスだけじゃ駄目ってことです。CGは特に忍耐強さが必要なんです。嫌なことや面倒なことでも、レンガを1個1個積んでいくような作業を繰り返して、いつかはブレイクスルーしてやるっていう感覚が大事です。最初のレンガ1個がずれていると、もう駄目で、全部やり直すことになる。トラブルが起きたときに、一歩も逃げられないのがCGで、誤魔化しがきかないんです。僕の場合は、最初の社会人で営業をやったことで忍耐強さが養われたと思っています。そういう意味では、無駄な経験ではなかったのだと思います。