2010/09/01更新
前述の論文を発表したのちに、James氏はPai 氏のもとを巣立ち、コーネル大学に移って自らの研究室をもつようになる。当初はJames氏が得意としてきたリアルタイム変形シミュレーションが研究室のテーマとなっていた。これまでのJames氏は、ファーストオーサーとして論文を発表し続けてきた。(通常論文は複数の研究者の共著として発表されるが、ファーストオーサーとは論文の最初に名前が掲載される論文執筆者を指す)しかし、このころからファーストオーサーは研究室で学ぶ人々に譲り、James氏自らはアドバイザーとしてアイデアを提供する立場に回ることが多くなった。個人の研究成果よりも研究室としての成果を優先させたいというのがJames氏の考えだったようだ。

そのような状況の中で、James氏が久しぶりにファーストオーサーとしてSIGGRAPH2006で発表したのが "Percomputed Acoustic Transfer(PAT)"という論文だった。タイトルから察しがつくように、この手法ではPRTのコンセプトを音の伝達シミュレーションに導入している。それまでのサウンドレンダリングでは、音源から観測者の耳に到達するまでの音波の変化が物理的に正確には計算されていなかった。音源からの音波が直接観測者の耳に到達する場合には、非常に単純な関数によってこれを正確に近似することができる。しかし、音を発する物体の形状が複雑な場合には、物体のある地点を発した音は、物体の他の地点で反射を繰り返したのちに観測者の耳に到達することになる。この間の音波の変化を物理的に正確に計算するためには、波動方程式(wave equation)という複雑な微分方程式を解かなくてはならない。そしてその計算負荷は非常に重くなるため、省かれる傾向にあったのだ。

音の波の伝播と光の波の伝搬は非常によく似た性質をもっている。前述の場合であれば、前者の音源から観測者に直接伝わる音というのは直接光が作り出す効果に相当し、後者の反射を繰り返したのちに観測者に伝わる音というのは間接光が作り出す効果に相当する。計算負荷の重い後者の工程を、PRTと同様の前計算を導入することによってリアルタイムに実装しようというのが今回の論文の目標だった。

前述したように、PRTでは前計算する光源配置の基本パターンを、球面調和関数というものを用いて表している。球面調和関数の各基底関数が光源配置の各基本パターンに対応しており、各基底関数は特定の周波数の領域に対応している。PATでも同様に、まずは音の波を各周波数の領域に対応した基本波に分解し、それぞれの基本波ごとにその波が反射を繰り返して観測者のもとに到達するまでのメカニズムを前計算する。要となったのは、このメカニズムを波動方程式のような複雑な方程式を解くことなく、しかしながらできる限り物理的に正確に数式化することだった。そのために導入されたのが、マルチポール(multi-poles)とよばれる仮想音源だった。詳しい説明は省くが、マルチポールを物体内にうまく配置すると、物体表面の振動が観測者のいる地点に作り出す波を、これらのマルチポールが作り出す波に重み付けをして足し合わせたものとぴったり一致させることができるのだ。マルチポールが作り出す波は非常に単純な関数で表されるため、前計算で適切なマルチポールの位置を決めておけば、最終的なサウンドレンダリングはそれに重み付けをして足し合わせるだけの計算となる。この計算であれば、リアルタイムに実行することができる。マルチポールの配置は、各周波数の領域に対応して基底ごとに決定されているため、最終的には前述のマルチポールの足し合わせに対して、さらにすべての周波数の領域に渡る足し合わせが必要となるが、いずれにしても足し合わせるだけなので計算負荷は軽い。

本来であれば複雑な物理方程式を解かなくはならない計算を、物理的な正確さを保ちながらシンプルな計算で近似したところに、この手法の醍醐味があったといえる。前述したようにこの手法の登場はサウンドレンダリングの2段階目の進化として、その歴史に大きな足跡を残すことになった。この手法を発表したのち、James氏は研究室の研究テーマの母体をサウンドレンダリングへと移行させていった。

後編では、James氏によるサウンドレンダリングの3段階目の進化の達成と、その後の理論と産業との橋渡し、つまり実用化を目指した挑戦についてリポートする。また、Pai 氏からJames 氏に伝えられた"教え"が、世代を超えてJames 氏の研究室の研究者や学生にも受け継がれ、同研究室が挑んでいるサウンドレンダリングの新たな構想の構築に多大な貢献を果たしていることを紹介する。


音を描き出す夢の実現 ~後編~