2011/06/15更新

スタンフォード大学時代:多彩な才能との交

企業で研究員としての経験を積み、実りある成果を残しながらも、Marschner氏はアカデミックな研究分野に復帰したいという願いをもち続けていたようだ。そんなMarschner氏のもとに、スタンフォード大学のMarc Levoy氏からPost-Docとして“デジタル・ミケランジェロ”のプロジェクトに加わらないかという誘いがかかった。このプロジェクトの内容は、ミケランジェロの彫刻の数々をCGで復元しようというもので、マイクロソフト時代のMarschner氏の“人間の表現”に関する実績が評価されての勧誘でもあったようだ。Marschner氏は願ってもない幸運とばかりに、このプロジェクトへの参加を即座に決意した。そして、2年間に渡るスタンフォード大学グラフィック・ラボ(Stanford University Graphics Laboratory)での研究生活がはじまった。

21世紀の幕開けを迎えたこの時期のスタンフォード大学グラフィック・ラボでは、世界で最も革新的なコンピュータ・グラフィックスの研究成果が続々と生み出されていた。そして、Marschner氏自身もこのような恵まれた環境のなかで、大きな成長を果たした。Marschner氏のその後の研究に最も大きな影響を及ぼしたのが、このプロジェクトを率いていたPat Hanrahan氏だった。前述したように、Marschner氏はコーネル大学時代に“レンダリング”というものを非常に深く学んだわけだが、Hanrahan氏はこれまでのレンダリングの常識を超えて、より物理的に正確に光の挙動をモデル化することを推進していた。これまでにもCGレンダリングは、光学やコンピュータ・ビジョンといった分野の業績を取り入れてきたわけだが、このような分野だけに限らず、およそ“光”に関わるあらゆる専門分野の業績に目を開いて、それらを積極的に取り入れてゆくことの必要性を強く認識したのはこの時期であったという。

Hanrahan氏に関しては、連載第2回で紹介したJensen氏もまったく同じことを語っていた。そしてJensen氏も、このプロジェクトに加わっていたのだ。Jensen氏が考案したサブサーフェース・スキャタリング・モデル(BSSRDFモデル)の原点は、ミケランジェロの彫刻の大理石の質感を、いかにリアルに表現するかにあったそうだ。BSSRDFモデルは、医療物理学の分野で考案された理論をグラフィックス向けに大胆にモディファイしたもので、このモデルの妥当性の検証や、適切なパラメータを導き出すために“計測”という概念が活用されている。Marschner氏は同論文の共著者でもあり、この論文のアプローチは、後に同氏がMarschnerモデルを導きだす上での大きなヒントになったという。この時期のMarschner氏にとって、Jensen氏はプロジェクト云々を越えて、かけがえのない同僚でもあり同志でもあった。幾度となくカフェでレンダリングについて討論した時間もまた、充実した実り多いものだったようだ。

"Animation and Rendering of Complex Water Surfaces"
(Douglas Enright, Stephen Marschner, Ronald Fedkiw, Stanford University, SIGGRAPH2002) (C)2002 ACM, Inc


この論文で発表された手法は、CG流体シミュレーションとレベルセット(Level-Set)の考え方を融合させて、複雑な水の表面や、水面・水中の泡の動きを効率的に計算している。これはRonald Fedkiw氏の研究室から発表された論文で、のちにILMがVFXを担当した数々の映画プロジェクトで活用されることになった。Marschner氏は、この論文のレンダリング部分を担当した。Fedkiw氏とのコミュニケーションは、Marschner氏の物理シミュレーションに対する情熱を呼び覚ますことにもなった。

そして、このスタンフォード大学時代にも、Marschner氏はその後の研究に大きな影響を及ぼすことになる重要な“出会い”を果たしている。それは当時研究室を開設したばかりだった、流体表現で名高いRonald Fedkiw氏との出会いだった。出会いのきっかけは、同研究室から発表された水のシミュレーションの論文のレンダリング部分を、Marschner氏が担当したことだった。もともと物理シミュレーションに強い関心を抱いていたMarschner氏は、そういった仕事上の要請を越えて、Fedkiw氏とのコミュニケーションを積極的にとり、物理シミュレーションへの理解を深めていった。布・流体・炎など、当時Fedkiw氏が展開していた研究に関する対話は、Marschner氏の物理シミュレーションに対する情熱を呼び覚まし、後に自らの研究室をもったMarschner氏が動きと質感の研究を融合・展開させてゆく上で、非常に大きな意味をもつことになった。多彩な才能との交流をともなったスタンフォード大学時代は、Marschner氏の研究がより大きく開花するための、実り多い準備期間であったといえるのだろう。

髪の毛の研究の開花

スタンフォード大学でのPost-Docを経て、Marschner氏は4年ぶりにコーネル大学にもどりAssistant Professorに就任した。自らの城を構え、最初に打ち上げられた花火ともいえるのが、Marschnerモデルの考案だった。前述したように、Marschner氏はすでにマイクロソフト時代から、Kajiya-Kayモデルの限界を打破するモデルを作り出すことを考えはじめていた。そして、スタンフォード大学時代のHanrahan氏の教えや、その教えを反映したBSSRDFモデルのような成功例を目の当たりにしたことが、具体的なアイディアを生み出すための起爆剤になったようだ。長いPost-Doc期間ではあったが、Marschnerモデルはこの間の様々な出会いがもたらした賜物ともいえそうだ。

Kajiya-Kayモデルは伝統的なCGレンダリングの常識の枠内に納まったものだったが、Marschner氏はその限界を越えるために、さらに一歩進んだ光学的解析と、コスメティックスの分野の研究成果を結びつけた。たとえば、一歩進んだ光学的解析という視点に関しては、Kajiya-Kayモデルで実行されている毛の表面の反射だけでなく、Marschnerモデルでは、毛を透過する光や、毛の内部で散乱する光も考慮している。そして、このような光と毛とのインタラクションを、Kajiya-Kayモデルでの毛の繊維に水平な断面上だけでなく、毛の繊維に垂直な断面上でも考察している点が大きな特徴になっている。Marschner氏は“毛の繊維に垂直な断面上での考察の必要性”を、コスメティックスの分野の文献から知った。常識的にはおよそ接点があるように思えない、“光学”と“コスメティックス”という2つの視点からの考察をうまく融合させたところに、Marschnerモデルの成功の秘訣があったのだ。

具体的にはMarschnerモデルは、前述の2種類の断面上で、反射・内部散乱・透過の3種類の光の挙動を関数化し、これらを結合させたものとなっている。それぞれの光の挙動を関数化する上では、“計測”のアプローチも本領を発揮しており、まさにMarschner氏がそれまで積み重ねてきた学習や経験の集大成にあたるものだったといえよう。

Kajiya-Kayモデルの限界を打破したMarschnerモデルは、レンダリング技術の研究分野のみならず、VFXの分野にも大きな影響を与えた。関数そのものは決して単純とはいいがたく、SIGGRAPH2003での発表直後には、実用化するには少し複雑すぎるのではないかという声も聞かれた。しかしVFXの分野における、よりリアルな髪の毛の質感への要望は思いのほか大きかったようで、それから2年と経たないうちに映画VFXなどに取り入れられていった。ハリウッド映画でのデビューはWeta Digital社がVFXを担当した「キング・コング(2005)」で、きっかけとなったのはヒロインのデジタルダブルの金髪の表現だった。このように、理論面においても実用面においても大きなインパクトを与えたMashnerモデルは、Mashner氏の新たな歩みの門出を祝うと同時に、その土台を固める上でも非常に大きな役割を果たすことになった。後編では、そういったMashner氏の新たな歩みの軌跡を追ってゆきたい。

"Light Scattering from Human Hair Fibers"
(Stephen R. Marschner et. al,"Light Scattering from Human Hair Fibers", SIGGRAPH2003)
(C)2003 ACM, Inc


Marschnerモデルは図aのように、毛の繊維に垂直な断面が楕円形のシリンダーを、"キューテクル"に相当する粗いサーフェースで覆ったものとなっている。毛のサーフェースでの光の反射(R)だけでなく、毛の内部での光の散乱(TRT)や、毛を透過する光(TT)の効果も考慮されおり、R, TRT, TTそれぞれの光の効果を、図bのように毛の繊維に水平な断面Aと、毛の繊維に垂直な断面Bの2種類の断面上で関数化している。R, TRT, TT それぞれに対して、2種類の断面上で定義された関数を掛け合わせ、それらすべてを足し合わせたものが、1本の毛の反射特性を表す関数となる。

図cの左は毛の反射特性の計算にKajiya-Kayモデルを用いてレンダリングした結果、中央は毛の反射特性の計算にMarschnerモデルを用いてレンダリングした結果、右は実物の毛の撮影画像を示している。Marschnerモデルを用いると、より実写に近い毛の質感を作り出せることがわかる。

コーネル大学Steve Marschner氏“毛”の表現の新境地をもとめて 〜後編〜