Airy Me

私たちは、この現実の世界の中で生きていると同時に、イメージの世界の中でも生きている。イメージの中では、愛情や欲求や憎しみなどの感情は増幅し、メタモルフォーゼ(変態)を繰り返し、その姿を変えていく。しかし現実の中では、それを肉体の中に収めてコントロールして生きている。自分の肉体は滅んでも、この感情は存在し続けるのだろうか。それとも共に消滅してしまうのだろうか。いや、様々な感情が混在した割り切れない強い想いは、崩壊した肉体という檻から解放されて、魂の塊となり、あの人の心を激しく貫く。
(水江未来)

アニメーションは基本的に人間の自己中心的な世界を拡張する方向性に進みがちだが、この作品はその逆をいく。もちろんアニメーションだから極端な他者は描けないが、この作品はそのかわり、人間と非人間の境界線上にあるもの、コントロールが不可能なものを朧げながら受信しようとしている。人体実験を蒙る少年の腕を看護師が掴むシーンがある。その腕の弾力は肉体を感じさせるが、その肉体は限りなく人間に近い何かだとしかいいようのない、不気味な弾力だ。この作品に宿っているのは昆虫の想像力とでもいえるのかもしれない。つまり、人間と地球という生存の舞台を共有しながらも、どこまでも異質で、異物でありつづける存在としての昆虫。この作品は、そんな昆虫が眺めた世界のように、人間が普段感知できる世界の少し向こう側を覗かせ、この世界の奥底に眠る不気味な何ものかとその何ものかが持つ限りない魅了の力を鈍く光らせる。異星人であることを許してくれる、ともいいたくなる。
(土居伸彰)

選考に入る以前のUstream配信で、期待する作品について「その作品が世の中をポジティブなものとして祝福しようが、ネガティブなものだと呪おうが、作者が必然性を持ってそう描いたものならば評価したい」とお話した時に、頭の中にあったのがこの作品でした。連続して切り替わるカメラワークと、独特の質感をもった作品世界の中で、人間が異形のものに変化していく。それは単純に言えば、おぞましい光景のはずです。しかしそれをただおぞましいものと捉えたまま見続けることができなかったのは、キメラと化した「かつて人間であったもの」の見せる表情の中に、それでも他者=世界とのつながりを求める気持ちのようなものが、どうしても見て取れてしまったからでしょう。それがこの作品の強みだと感じます。断片的なストーリーを、断片のつながりとして描くことの難しさをゆうゆうとクリアしていっている点は、テクニックはもちろんですが、作者がひたむきのこの作品と向かい続けたからこそ可能なことなのだろうと感じました。
(武田俊)

久野 遥子
多摩美術大学
アニメーション