TOP > 先輩からのメッセージ

2016/9/12更新

記事:1  2

「先輩からのメッセージ」のコーナーでは、制作の第一線で活躍する方々に、ご自身の学生時代から現在にいたるまでの道のりや、業界を目指す若手へのメッセージを伺っています。今回登場するのは、映画「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」の日本人モデラーとして有名な糸数弘樹氏。 ハリウッドという厳しい制作現場の第一線で、3DCGアーティストとして20年以上の経験を持つ糸数氏が、その夢を達成するまでの道のりと、実際に海外で働いて想うことについて語っていただきました。


ラスベガスから奨学金をもらった

沖縄県久米島にある民宿の息子で、自然が豊かな土地で育ちました。玩具が欲しくても売ってないので、竹馬や竹とんぼを自分でつくって遊んでいましたね。学生の頃は中学校の美術の先生になりたくて、琉球大学芸術学部美術工学科に進学しましたが、在学中に工業デザインに関心が出てきて、卒業後に留学を決意したんです。英語は得意ではありませんでしたが、行けば何とかなるだろうと。ホントに安易な考えでしたね。

第一志望はカリフォルニア州パサデナにあるArt Center College of Designでした。工業デザインでは世界でも有数の大学で、特に自動車のデザインについてはトップレベルを誇っていました。最もアメリカの大学に入学するにはTOEFLにパスしなければなりません。そこで、はじめにルイジアナ工科大学の英語クラスに入学しました。

TOEFLは一生懸命勉強すれば、たいてい1年で目標点がとれます。しかし、自分はどうにも記憶力が乏しくて、落第しました。朝から晩まで勉強しましたが、二年目もダメ。そうこうするうちに、お金が続かなくなってきたんです。そこでいろいろなアルバイトをやりました。1日20キロくらい草刈り機を押したり、バーテンダーをしたり、お年寄りの介護の手伝いをしたり…。でも、なかなか儲からなくて、浮世絵をシルクスクリーンで色紙に印刷して観光客に売ったときもありました。ロサンゼルスの寿司屋のアルバイトでは、9時から深夜0時まで働いて、板前の資格が取れる直前まで勤めました。毎日15時から2時間の休憩時間があり、部屋を暗くしてスタッフは昼寝するんですが、自分だけ豆電球をつけて英単語を覚えたりして…。だんだんくじけそうになっていました。

そんなころ、友人とラスベガスに行ったんです。ロサンゼルスから車を飛ばして、到着したのが午前3時。スロットマシンで遊び始めたら、大当たりが出てリールが止まって、マネージャがやってきて「Congratulation!」。なんと3万ドルが手に入ったんです。これで学費ができたと思いましたね。ラスベガスから奨学金をもらったようなものです。TOEFLのテストもギリギリ合格できて、ようやく念願のArt Center College of Designに進学できました。留学して3年目のことです。

 

日本とアメリカの教育スタイルの違い

まわりの学生とちがって、自分は琉球大学で4年間美術を学んできたので、それなりに自負もありました。でも、入学早々に鼻をへし折られました。なんといっても学生のプロ意識が高いんです。アメリカの大学ではよく週末ごとにパーティがありますが、ここの学生は週末も学校で作業をするんです。夜になると建物に鍵がかけられますが、みんな合鍵を持っていて、深夜0時くらいに学校に戻ってきて作業を続けます。工業デザインだから、いろんな機材や設備が必用で、自宅や寮では作業できないんですよね。課題の量も半端ではなくて、日本の2から3倍はありました。

授業も非常に論理的でした。石膏デザインの授業では、はじめに真っ暗な部屋に石膏像をおいて、電気を1つだけつけて、どんな風に光が当たって影ができるか、物理的に分析するところから始まりました。クロームメッキの球体を広場にもっていって、どんな風に周囲が映り込むか観察するといった授業もありましたね。

今は違うかもしれませんが、当時は日本の美大は教える方も教わる方も、もっと感覚的でした。もっとも、それがよいところもあるんです。優秀な学生は変にあれこれ言わなくても、どんどん伸びていきます。でも、自分のように感覚ではなくて論理で習得していくタイプの子は、伸び悩むこともある。自分はあきらかにアメリカ式が合っていました。

デザインは経験年数ではなく、何時間集中したかが重要です。パイロットの飛行時間と同じです。特に若いうちに集中して勉強すると、ぐんと伸びますし、学生時代にそうした癖をつけておくと、就職した後も生かされます。

 

CGの道に進む

卒業してすぐにやった仕事がOAKLEYのサングラスのデザインでした。フリーランスの工業デザイナーとして契約して、十数枚くらいスケッチを描いて、1000ドルになりました。当時のサングラスはつるが曲がったものばかりでしたが、スポーツ用のサングラスということで、つるがまっすぐなものをデザインしました。その後、似たようなデザインのサングラスが発売されて、もしかしたら自分のデザインが採用されたのかな?と思ったりしています(笑)。

ちょうどその頃、ワーナーブラザーズでCGアーティストの募集がありました。当時は映画『ジュラシックパーク』をはじめ、映画にCGが使われ始めたころでした。私はCGについては素人同然でしたが、運よく見習いで雇ってもらうことができました。業界中で人手不足だったんです。定時は18時でしたが、毎日0時くらいまで残って勉強していました。そうした姿勢が評価されたのか、半年で本採用になりました。

 

ワーナーブラザーズでの経験

ワーナーブラザーズで最初にやった仕事が、『バットマン』のテレビシリーズで、ゴッサムシティのビル群などのCGを作りました。John Dykstraという、『スター・ウォーズ』と『スパイダーマン』で、アカデミー賞のエフェクト部門を2回受賞した、神様みたいな方がつきっきりで教えてくれて、すごく勉強になりました。 当時はハードウェアが貧弱でしたから、マジメにCGをつくると重すぎて動かなくて、ゴッサムシティのビルも、正面から見た絵を1枚だけレンダリングして、それをポリゴンの板に張り付けて表示したりと、いかに軽くつくるかに苦心しました。

次に手がけたのが映画『アイアンジャイアント』です。いろいろありまして、モデリングを全部一人でやることになりました。主役のアイアンジャイアントから、飛行機、戦車、トラック、はたまた道ばたの岩に至るまで、本当に全部!『アイアンジャイアント』のプロジェクトでは、キャラクターデザイナーが2人いて、それに監督のBrad Bird氏がくわわって、3人の意見をとりまとめてモデリングしました。3人の言うことがそれぞれ、微妙に違うんですよ。それに自分のオリジナリティも少し加えたりして。いろいろと学ぶことの多い時代でした。

next page
 

糸数弘樹さん

GUNCY'S

沖縄県久米島出身。琉球大学美術工芸科を卒業し渡米。Art Center College of Designを卒業後、キャリアをスタートしたWarner Bros. Companyで『バットマン』シリーズの舞台となる架空都市ゴッサム・シティのビル群モデリングや特殊効果、『アイアン・ジャイアント』では全てのモデリングを手掛ける。その後、20014年までWalt Disney Animation Studiosのトップクリエーターとして『シュガーラッシュ』『塔の上のラプンツェル』など30本以上の作品に参加。ディズニーアニメーション史上初の長編アニメーション賞を受賞した『アナと雪の女王』では背景のモデリングを担当。独特の世界観を生み出すため、氷の一粒一粒にまでこだわった表現技術が受賞に大きく貢献した。

 

小野憲史

平日は主夫業に忙しいゲームジャーナリスト。雑誌『ゲーム批評』編集長を経て2000年よりフリーランスで活動中。Webを中心に業界レポート、インタビュー、コラムなどを発表している。主な連載に「小野憲史のゲーム評評」(inside)など。著書に『ニンテンドーDSが売れる理由』(共著)『ゲームニクスとは何か』(構成協力)がある。NPO法人IGDA日本代表。