2011/02/23更新
アメリカのゲーム産業の競争力。その源泉は「教育」

2000年代に入って、アメリカのゲーム産業が競争力を獲得してきた背景を考えるとき、外すことのできない要素がある。ゲームについての「研究と教育」である。2000年頃には、全米に数校しかなかったゲームを扱う高等教育機関が、現在では250校にまで増加している。これらの高等教育機関を卒業した学生達がもち込んだ、新しい考え方と能力が、アメリカのゲーム産業の盛り上がりの要因になっている。

なぜ、そのようなことが可能だったのか。その原因を探っていくと、ゲーム教育をアメリカの大学教育のなかにきちんと位置付けようとした標準化の試みと、その実現のために主体的にリーダーシップを発揮していった教育者達の姿が浮かび上がってくる。

過去10年間のアメリカのゲーム教育を取り巻く変化を、コンピュータ技術の歴史、とりわけハッカー史やゲーム開発史が専門の青山学院大学 総合研究所 研究員の山根信二氏に伺った。山根氏は、新しい研究分野を開拓し、新しい動きを生み出していったのは誰か、という観点からコンピュータの歴史を見ている。また、IGDA日本(国際ゲーム開発者協会日本)のSIG Academic(アカデミック専門部会)の世話人として、IGDA日本アカデミック・ブログで世界のゲーム教育についての情報を発信している。世界のゲーム教育の実情について、日本で最も正確に把握している人物の1人である。

90年代末までは「アメリカの大学でゲーム研究の学位を認定するのは難しい」と考えられていた

山根氏によると、第3回のリポートで紹介したワシントン州シアトル市近郊のDigiPen Institute of Technology(デジペン工科大学、以降DigiPenと記す)は、アメリカでのゲーム教育の先駆けとなった、ユニークな学校だという。DigiPen設立の経緯は、ゲーム会社がゲームスクールを作るのに近いものだったそうだ。任天堂の現地法人Nintendo of America(NOA)は、ゲームの制作技術を習得している学生の少なさを大きな課題として抱えていた。即戦力を身に付けた人材を育成したいという任天堂のニーズと、DigiPen側の考えが合致したのだ。

ただし、DigiPenはアメリカの一般的な大学だとはみなされなかった。「高等教育機関」ではなく、「職業訓練校」と理解されていた。このことは、DigiPenを卒業しても、他大学の大学院に進学することができない、といった仕組みからわかる。

アメリカと日本の大学教育制度の違いを理解するうえで重要なのは、誰が単位やカリキュラムの制度と基準を決めているのかという点だ。日本では、文部科学省が制度と基準をまとめており、どの大学においても、それに沿った形で単位やカリキュラムを構成しなければならない。一方、アメリカには大学の業界団体や外部評価機関があり、それらが共通するルールを決めている。それによって大学間の「学位の互換性」を確保し、ある大学の卒業生が、他大学の大学院に進学できるようなルール作りが行われている。

また、理工系大学の学部では、この基準を海外にも適応していた。少し前までは、日本の大学との学位の互換性が保たれていなかったために、実績のない日本の大学からアメリカの大学院へは、そのまま進学することはできなかった。半年間アメリカの大学に通ったり、アメリカの大学のサマースクールなどで講義を受講したりすることで、基準を満たす単位を取得する必要があった。

DigiPenは、まさにこの問題を抱えていた。アメリカの大学教育制度に従って作られた学校ではないため、取得できる単位や学位には、他大学との互換性がなかった。日本の状況に当てはめるならば、私塾という理解になる。このような事情のため、人気を集めている学校だが、一段下に見られる傾向にあった。

当時、大学でのゲーム教育で先行していたのは欧州地域で、たとえばオランダのユトレヒト大学が率先して取り組んでいた。同大学は、現在ではシリアスゲームなどの研究で知られており、九州大学と提携を行ったりしている。そのため、2003年に設立された、世界初のビデオゲーム研究を専門とした学会組織であるDiGRA(Digital Games Research Association/デジタルゲーム学会)(※)は、欧州の研究者を中心に組織された。

※ DiGRAの日本における拠点として、日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)が活動している。

山根氏によると、当時の議論では、「アメリカの大学でのゲーム研究の学位認定は難しい」という意見が主流だったという。実際に、2000年代前半は、「グランド・セフト・オート」などのゲーム内の暴力表現の過激さが、社会的な問題として大きく注目を集めていた時期であり、アメリカはゲームを叩く文化を強くもっている国と考えられていた。また、社会的にも大学内部でも、ゲームは学問的な枠組みで捉えるものとして考えられていなかった。

ただ、DiGRAが設立される頃には、欧州各地の大学でゲームを研究分野と位置付けて、学位が取れる教育環境が普及し始めていた。ゲームに関連する分野は、工学から心理学まで幅広く、それらの既存の研究分野のなかに、新しい分野であるゲームを位置付ける動きが、まず、欧州で始まった。

カーネギーメロン大学にゲーム研究を導入した、パウシュ氏の試み

先行する欧州の動きを受けて、アメリカの大学でも学位を取得できる教育プログラムを作ろうとする動きが起こってきた。

「特に重要なアクションを起こしたのが、カーネギーメロン大学 教授のランディ・パウシュ氏だった」と山根氏は言う。同大学は、東海岸地域のペンシルバニア州ピッツバーグ市にあり、マサチューセッツ工科大学などと並ぶ、アメリカの名門大学の1つとして知られている。特に、コンピュータサイエンス分野の研究に強い。また、アート分野でも、アンディー・ウォーホルといった人材を過去に輩出している。

パウシュ氏は、バーチャルリアリティ研究を中心に、すでに数々の研究実績を築き上げていた。物語やゲームを通じて、初心者がプログラミングを学べる、「Alice」とよばれる3Dグラフィックスの作業環境を作りだしたメンバーの、中核を担っていた。パウシュ氏の研究室では、単に理系の学生だけではなく、アート分野などの文系の学生も混じって、仮想世界の研究を行うなど、複数の分野の学生が共同作業を行うための枠組みが実践されていた。

理系のパウシュ氏が、同大学の教授で、演劇についての教育を行っていた文系のドナルド・マリネリ氏と共同で始めたのが、1999年にスタートしたエンターテインメント専門大学院「エンターテインメント・テクノロジー・センター(ETC)」だった。

大学の制度を新たに作る場合、4年制の学部を立ち上げることは容易ではないが、2年制の大学院であれば立ち上げやすい。しかし、リスクも大きかった。大学や国からの予算が付かなかったために、ETCの学費はすべて学生が支払わなければならなかった。「こういうケースは、アメリカの有力大学ではめずらしい」そうだ。一方で2000年代前半は、大学院卒の学位をもった学生が、ゲーム産業に進んで役に立つものかどうか、「企業の側も判断ができない」状態にあった。

しかし、パウシュ氏は、エンターテインメント分野の新しい枠組みの可能性に賭けて飛び出した。

フィールドワークを積み重ね、企業のニーズを明らかにした

スタート直後は、パウシュ氏であっても「エンターテインメント産業の側にどういうニーズがあるのか、明確につかめていたわけではなかった」と、山根氏は言う。

そのためパウシュ氏は、長期研究休暇(サバティカル)を取って、様々な企業で自ら働いてみるという経験を積み重ねることにした。ウォルト・ディズニー・イマジニアリング社で働き、テーマパークの開発に参加し、その成果を産学の共著論文として発表した。アドビ社、グーグル社での勤務も経験した。アメリカ最大手のゲーム会社である、エレクトロニック・アーツ(EA)でも1年近く働いた。当時、ゲーム会社と大学院の両方の肩書きを兼任して働いているような人は、パウシュ氏の他にはいなかった。

そして、パウシュ氏は、EAで働いたフィールドワークの経験を1つの論文にまとめた。「An Academic's Field Guide to Electronic Arts」である。これは、教育と研究の両方の観点から、ゲーム産業に対して、大学が何をするべきなのかを明確にした、重要な報告だった。

パウシュ氏はEAと共同で、ゲームを中核に据えた教育プログラムの開発を行う体勢を構築した。この教育プログラムを終えて、ETCの修士号を取得した人材は、企業にとって実際に役に立つ人材であると、明確にイメージできるようになったのだ。

さらにマリネリ氏は、ETCの分校を、世界各地に作った。カタール、シンガポール、オーストラリアなど、一学期ごとに学生を回らせて、世界各地の企業でインターンシップを行わせる制度も確立した。ブランドが確立されてくると、逆にETCの分校を設立して欲しいという動きが出てくるようになった。日本でも2008年、大阪に、ETCの日本校が設立された(現在は撤退)。

ETCは、成功した大学院モデルとして知られるようになった。例えば、2007年にカナダ、ブリティッシュコロンビア州バンクーバー市に設立された、デジタルメディア産業向けの専門大学院 Great Northern Way Campusのカリキュラムは、ETCをモデルとしている。同州の地元の4つの大学から、文系と理系の学生が入り交じる形で進学できる、専門の大学院だ。

ただ、ETCも、やはりDigiPenと同じ「互換性の問題に直面することになった」と山根氏は指摘する。ETCを卒業して取得できる修士号の学位は「エンターテインメント・テクノロジー」とよばれ、他大学にはない、独自のものだったためだ。したがって、修士課程を修了し、博士課程に進もうと思っても、その受け入れ先がない。また、ETCの修士号を博士課程に進学する場合に認めても良いのかが、焦点となったのだ。

そのため、各個にバラバラになっている単位制度を整理して、共通化しようという動きが登場することになった。

IGDAカリキュラムフレームワークが果たした共通基盤化

この共通化の動きで重要な役割を担ったのが、毎年春にカリフォルニア州サンフランシスコ市で開催され、近年日本でもその存在が知られるようになったGDC(Game Developers Conference)と、ゲーム開発者個人を対象とした国際NPOのIGDA(国際ゲーム開発者協会)である。

IGDAは、2002年のGDC会期中の2日間に、初めて「IGDA Academic Summit」を開催した。ここでは、当時、議論が始まったばかりだった教育カリキュラムのアメリカ全体での共通化や、教育機関どうしの情報共有といった、土台整備が行われた。GDCのみならず、CG系の学会として知られるSIGGRAPHでも、同様の議論の場が設けられた。これらの活動によって、点でしかなかった情報が多くの人に伝わり始めた。「ゲーム産業に実際に研究者が入り込むと、こういう経験を積むことができますよ」といったことを、パウシュ氏は、彼自身のフィールドワークの成果を示しながら、布教に近い形で説明していった。

また、IGDAのEducation Committee(教育委員会。現在は、Education SIGという名称で再編されている)は、2003年に「IGDAカリキュラムフレームワーク」を発表した。これはゲーム開発者が参加して、ゲーム教育を展開するうえで必要な要素をまとめた文書で、最初のバージョンがリリースされた後、5年ごとに改訂されている。日本語化された最新版「3.2 beta」は、財団法人デジタルコンテンツ協会の「平成20年度版デジタルコンテンツ制作の先端技術応用に関する調査研究報告書」に参考資料として収録され、PDFで無料公開されている。

これは、学会だけが動くのではなく、現場の開発者が主導で、風呂敷(フレームワーク)を作ったところに大きな意味があった。この文書は、ゲーム開発を構成するための要素がまとめられたチェック項目リストのような形を取っている。そのなかから,どの要素を選んでカリキュラムに組み込むのかは、各大学に任せられている。

ただし、これを利用することで「ゲーム開発者教育とは何を示しているのか」「必須の項目とは何であるのか」「そのカリキュラムでは何を提案するのか」を把握できるようになったため、多くの大学が、IGDAカリキュラムフレームワークを参照するようになった。日本でも、東京工科大学 メディア学部 エンタテインメントメディアコースや、東京工芸大学 芸術学部 ゲーム学科といった参照例が登場した。

パウシュ氏自身も、カリキュラムについての相談を受けると、まず、「IGDAカリキュラムフレームワークを見てください」と答えるようになった。事実上のスタンダード化である。大学関係者の間で、これが共通言語となることで、「アメリカの教育界内部の風通しが良くなった」そうだ。

山根氏は、教育機関や国が決めたわけではなく、何の権威もない草の根の団体がまとめ上げたものが、共通基盤化に貢献していったことは「歴史的に重要な意味があり、まれな現象でもある」と指摘する。

この動きは、さらに大きな動きへと繋がった。既存の学問のあり方にも一石を投じた、南カリフォルニア大学(USC)のゲームカリキュラムの設立と成功を生み出すことになったのだ。

パウシュ氏の「最後の授業」

山根氏は、パウシュ氏の活動によって、「新しい学問分野が登場するときに起きる現象に近いことが起きた」と言う。コンピュータサイエンス(計算機科学)とよばれる分野は、成立後20年〜30年で、歴史が短い。80年代に標準化されたばかりの新しい分野だ。

山根氏は、パウシュ氏がアメリカのゲーム教育を確立するために果たした役割の重要性を指摘する。「若くしてコンピュータサイエンス分野の頂点に立った研究者だったからこそ、柔軟な発想ができた」。そういう人物が、ゲーム研究にのめり込み、産業界でのフィールドワークまで行い、リーダーシップを発揮した。パウシュ氏のような発想は、「伝統的な工学系の研究者からは出てこなかっただろう」と述べている。

山根氏は、日本の研究者も、本当に意味のあるゲームの研究や教育を行うためには、「まず、ゲーム会社で数年働くような経験をするべきではないか」と指摘している。

しかし、パウシュ氏は、2008年に47歳で急折した。2006年に末期癌に直面していることが明らかになったためだ。パウシュ氏は、2007年9月に「最後の授業:子供時代に抱いた夢の実現」という講義を行った。内容は、自分のやってきた研究を振り返るもので、ユーモアを交えながら行われた講義は、動画サイトYouTubeに公開され、大きな反響をよんだ(日本語字幕の付いたバージョンも公開されている)。講義は、『The Last Lecture』という本にまとめられ、アメリカではベストセラーになった。日本でも翻訳され、『最後の授業:ぼくの命があるうちに』(株式会社武田ランダムハウスジャパン)として出版された。

後編では、カーネギーメロン大学のパウシュ氏と並んで、アメリカのゲーム教育の発展に大きな貢献を果たした、南カリフォルニア大学のゲーム教育への取り組みや、日本国内でのゲーム教育の現状をご紹介する。

10年間で大きく変化したアメリカのゲーム教育~後編~