Radio Calisthenics No.1

ダンスなどの身体表現の面白さのひとつに、身体と空間や時間が密接に関係し、身体のあり方によって空間性や時間性が変化するということがあると思う。例えばそれは、ウィリアム・フォーサイスの「Improvisation Technologies」の中で、椅子やちゃぶ台がそこにあると仮定して(というよりも、事後的にそこに椅子やちゃぶ台が生まれている)ダンスするシーケンスだったり、マーキューズ・スコットや、デビッド・エルスウェアのような、時間が止まって感じられる身体の事だ。どちらも、本当に空間や時間がねじ曲がっているわけではなく、空間や時間が自らの身体に先行して存在しているという主従関係を逆転させ、自らの身体が、そこにそうして在るために、そうした変形した空間や時間が後から生まれるというような、ある種の脱臼というか越境がそこにある。この作品は、全く異なる事象をデータという地平で同一に扱い、それぞれを繋ぎ合わせることが出来るという、コンピューターの脱臼的な特性を生かして、実際にやってしまった例だと思う。それは、いささか無粋で下品なのだけれども、その無粋さが次の新たな表現や問題の発見につながって行くのかもしれないと思う。
(谷口暁彦)

安達 裕平
東北芸術工科大学大学院
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