2010/09/22更新
「モノの見方」を紹介
この対談では、筆者の視点を通じて、対談をさせていただく方の「モノの見方」や「ヒトの育ち方、育て方」を紹介していきます。ゲームや映像の仕事に携わっている方が、日々の積み重ねのなかで感じている考え方を、圧縮するような形で切り取り、そのエッセンスを感じられるようにご紹介していきます。
ゲーム業界を目指す学生の熱気に包まれた、業界研究フェア

業界研究フェアの会場

8月31日から9月2日までの3日間開催された、日本最大のゲーム開発者向けカンファレンス「CEDEC」に合わせて、今年も「ゲームのお仕事 業界研究フェア」がパシフィコ横浜で開催された。このフェアは、将来ゲーム業界に進むことを検討している学生をおもな聴衆として想定しており、1日に5セッション、3日間で全15セッションが実施された。セッションでは、第一線の現場の人たちに、自らの仕事について語っていただいた。去年に続き、今年も経済産業省からの予算支援を受けて、参加費無料で開催された。毎日300名を超える参加者が詰めかけ、学生からの質問が次々に出され、会場は終日熱気に包まれていた。筆者はこのフェア全体のコーディネーター件、責任者として関わった。

業界研究フェアでの筆者と金久保氏

バンダイナムコゲームスの金久保哲也氏には、31日に「モーションキャプチャスタジオから見たキャラクタ表現の変遷」というタイトルで、セッションを行っていただいた。モーションキャプチャを中心としたアニメーション制作の技術スタッフとして、普段の制作プロセスや、物事をとらえる際の視点を紹介してもらった。 CEDECが終了した翌日、お互いに大量の情報を浴びて、頭がまだ落ち着いていないなか、セッションを振り返っていただく形でインタビューを行った。
雄大であろうと楽しみに思っていた湖が……

金久保氏が撮影した天狗池の写真

実は本当に小さな「池」だった

撮影スポットに三脚を立て、一眼レフを
覗く登山者たち

金久保氏はセッションの最後に、趣味の山登りで、日本アルプスの槍ヶ岳にある「天狗池」を見に行った際のエピソードを話してくださった。ある日、駅構内に貼られた日本アルプスを紹介するポスターで、この天狗池を撮影した写真を見かけた。こんなに雄大な湖のような風景が見られるのなら1度行ってみたいと、強く思ったのだという。風がなく澄んだ水が広がる日の天狗池には、槍ヶ岳の頂上が反転して映り込むため、「逆さ槍」ともよばれる。写真の天狗池は、見るからに神秘的な雰囲気をたたえていた。標高は約2,500メートルと高く、普通に登山すれば半日かかる。冬は雪に覆われてしまい、池そのものが姿を消してしまう。夏場の短い期間だけ姿を現す池だ。 ところが、汗だくになりながら、やっと苦労してたどり着いた天狗池を前にして、「写真というのは、嘘がつけるものだなあ」と、金久保氏は思ったという。「池」というだけあって、本当に小さな池だったのだ。「えええ、こんなに小さいの?」と、来る前までに思い描いていた風景とのギャップに驚かされたという。天狗池の水面にカメラを近づけて、角度をうまく調整して、槍ヶ岳の頂上が写るように撮影すると、実際のサイズの数百倍もある雄大な風景が広がっているかのように感じられる写真が撮影できることを、現地に行ってはじめて理解したのだという。 駅で見たポスターと同じような、雄大な印象を作り出す風景が撮影できる特定の岩の上は、有名な撮影スポットになっていた。そこでの撮影を目指してやってきた登山者の一眼レフを設置した三脚が、いくつも並んでいた。 カメラは、そこに存在する世界をそのままに表現するのではなく、現実に存在している世界を切り取る形で、現実以上に美しいと感じさせる別物へと変えてしまうことができる。ポスターによって、その気にさせられ、半日がかりで山に登らされた金久保氏は「悔しい」と思いながらも、考えさせられる体験だったと語った。

「現実世界の生の感動の量」が表現力を養う
金久保氏自身は、一眼レフのような本格的なカメラを使うことなく、普通のコンパクトデジタルカメラで、綺麗だなと思う風景を撮影しただけで帰ったそうだ。それで十分満足できると感じているし、いくらいいカメラで撮影して人に「綺麗だよ」と見せたとしても、本当の意味で伝わらないと思っているようだ。大切なものは別のところにある。 天狗池は小さな池にすぎないが、その小ささのギャップは、そこまでたどり着いてみなければ、身体で体験することができない。その場所のもっている雰囲気や空気感は、何枚写真を見たところで、決して受け取ることができず、体験として蓄積されないからだ。その場所に行って得られる感動以上のものは、存在しない。その記憶をよび覚ますためだけに、記録として写真を撮影した。
現世代の家庭用ゲーム機になって、グラフィックス技術は現実の世界や映画と見まがうばかりの水準にまで跳ね上がった。しかし、それで世界のすべてが表現できるかというと、実際の世界とは、まだかなり大きな差が存在している。
ゲームのグラフィックスに、現実世界に存在する空気感を埋め込むことは容易ではない。今の技術であっても無理なのだ。自然がもつ特有の空気感は、写真になったり、CGになったりした瞬間に失われてしまう。そのため、制作現場の人たちは、ゲームのテーマや、使用するハードの特性を理解しながら、何とかそれに近づけるように、様々な手法を使って努力を積み重ねていく。
このときの表現力は、表現者の「蓄積している現実世界の生の感動の量」に比例してくる。蓄積された感動を引き出しにして、デジタルデータに落とし込むために、何を選んで、何を先鋭化していけばいいのかという視点が作りだされる。より優れたグラフィックスを作り上げる能力を磨くためには、生の感動や感覚から様々なものを削っているゲームのような人工的な刺激を受けるだけでは、ダメだということになる。
本来人間には不可能な動きを、自然な動きと感じる不思議

金久保氏がセッションで紹介したアニメーション

金久保氏はセッションのなかで、モーションを制作するアニメータの仕事が、情報を演出していく作業であることを示す具体例も紹介した。プロの殺陣師の動きをモーションキャプチャしたデータを通じて、人間にとってリアルと感じられる感覚とは何かを示したのだ。そのデータは、殺陣師が刀を振り下ろした1秒ほどのアニメーションだった。金久保氏は、オリジナルデータと、そのデータをアニメータが少しだけ加工したデータとを比較しながら交互に見せてくれた。そして、聴衆に聞いた。「どちらのデータが、時間的に短いでしょうか?」
オリジナルデータは、素早く切り込んでいるが漫然として見える。一方で、アニメータが触っているデータは、素早く切り落としているように感じられる。多くの聴衆が、アニメータが触ったデータの方が短いと感じた。
ところが、金久保氏は、どちらのデータも「時間的な長さは同じ」だと説明した。
アニメータが触っているデータは、刀を振り下ろし始める瞬間にほんのわずかだけ動きを止め、振り下ろす速度は実際よりも素早く、振り下ろしきった瞬間にピタッと腕が止まり、メリハリがある。アニメータが自分の感性で「タメやヒキ」を表現し、オリジナルデータを修正していった結果だという。
しかし実際には、人間はこのような動きをすることはできないそうだ。これほど素早い速度で刀を振り下ろし、これほどピタッと止めたならば、筋肉が耐えきれず骨が折れてしまう。それぐらい、人間にとってみれば、不自然な動きなのだという。
にもかかわらず、不思議なことに、人間は加工した動きでも、人間が実際に行うことができる動きだと感じてしまうのだ。そして、それをより自然な動きとして納得してしまう。アニメータの仕事は、現実の人間には不可能な動きであっても、細かく修正していくことで、自然な動きだと感じさせるような表現を模索する作業なのだ。
アニメータがしている仕事は、天狗池の写真と同じ
このアニメータの話は、天狗池の写真の話と同じである。アニメータは、現実世界に存在している情報を、情報を加工する人間の見方で切り取っていく。 言うまでもなく、現在のアニメータの仕事は、マウスとキーボードを使ってコンピュータを操作する間接的な動作で構成されている。その一方で、加工されたデータに触れているだけでは、決して見えてこない感覚が求められる。イメージの根源を模索するためには、生の感覚の蓄積がいる。自分自身のなかに、そうした体験を積み重ねておかなければならない。
生の感覚を蓄積した上で、自分の表現したいことを、ほかの人にわかってもらうようにするためには、どのようにすればいいのかを、懸命に考え、工夫することが求められる。

バンダイナムコゲームスのアニメータは、仕事時間中に、始終自分の身体を動かしている。自分自身の動きを鏡に映して観察し、筋肉がどう動いているのかを確認したりする。

金久保氏は、アニメーションは「動いてなんぼ」という部分があると述べる。だから、現実世界にない動きであろうとも、その動きをユーザが気持ちいいと感じるのであれば、その感覚を追いかけていく。
アニメータになるためには、生の体験と、その情報を加工する訓練の繰り返しが必要

業界研究フェアの翌日、対談を行った

人体の動きなどをシミュレーションする技術が進んでいけば、自動的にきれいなアニメーションがつけられるようになり、将来アニメータという職種がなくなるのではないかと、社内でもいわれることがあるという。 金久保氏は、決してそうはならないと断言する。こういうアニメーションが欲しいと、コンピュータに命じれば、電子レンジのように自動で「チン」と仕上げてくれるなんて時代は来ないと述べる。情報を見せていくための「演出」の仕事は、人間の手を介していかなければ実現できないために、ずっと残り続けるからだ。
現実の生の情報の世界と、それを加工したデジタル情報の世界は違う。その間をつなぐ作業は、常に人間の感性を必要とし続ける。モーションを中心としたアニメータの仕事は、制作プロセスが見えにくいため、どうしても一般のユーザからはわかりにくい部分がある。しかし、あるアニメーションを見て、その動きに不自然さを感じないということは、そのゲームのアニメータは、それだけ優れた仕事をやっているということでもあるのだ。
金久保氏は、ゲームのアニメーション制作の現場は、1度作ってみて、うまくできなければ壊し、また作っては壊しを繰り返す地味な作業の積み重ねだと説明する。学校の課題だけでは、作っては壊しという訓練の量が少なすぎるともいう。
それでは、アニメータはどうやって、そういう感性を育てるべきか。金久保氏は、モーションキャプチャスタジオといったものがない学校に通っていても、訓練は十分にできるという。 たとえば、自分自身の動きをビデオカメラで撮影して、その動きをトレースするように、アニメーションを付けてみるだけで、数多くのことが学べるという。人体の動きが、自分の想像とどれだけ違うのかを理解するだけで、相当のことがわかる。アニメータの仕事を学んでみたいと思う人は、試してみて欲しい。
結局は生の体験、そして、その情報を加工する訓練を繰り返していくことが基礎になる。アニメータを目指そうという人は、心にとめておいて欲しい。