FLIP ~パーティクルベースのソルバー

FLIPソルバーを導入した“Squirt”は、これまで映画VFXで用いられてきた流体シミュレーションのソルバーにはなかったような、数多くの特性を保持していた。なかでも特記すべきは、密度が変化するような流体にも、物理的に正確に対応できたという点だった。通常VFXが対象とする流体の表現(水・煙・霧など)では、流体の密度が変化しないと仮定してシミュレーションを実行し、その結果として十分にリアルな映像を作り出すことができた。それゆえに、これまで使われてきたCG流体シミュレーションのソルバーのほとんどは、密度が変化しない流体に限定して構築されていた。これに対して、FLIPはもともと密度が変化する流体を対象にしており、Bridson氏のFLIPソルバーは、それを密度が変化しない流体にも対応できるように改良したものだった。このように、密度が変化する流体にも、密度が変化しない流体にも対応できるソルバーの存在は、映画VFXにおけるCG流体シミュレーションを用いた表現の幅を大きく広げることにつながっていった。

その代表例の1つが『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2008/日本では2009年公開)で用いられた炎のシミュレーションだった。流体シミュレーションを用いて炎の表現をする試みは、それまでの映画VFXでも行われてきたが、物理的に正確な表現という点では、不完全なものであった。炎の“最も炎らしい表情”を物理的に正確に作り出すためには、“発火”の工程をシミュレートする必要がある。しかしこの“発火”という現象は、炎の温度が一定値以上になり、密度が急激に変化することによって引き起こされる。したがって、これまでのCG流体シミュレーション・システムを用いて“発火”を表現することは不可能だったため、“燃える”という現象の本質は3Dノイズ関数などを用いて近似されていた。『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』では、ヒロインの身体を包む炎をフルCGで作成する必要があった。当初は密度の変化をともなわない通常の流体シミュレーションと、3Dノイズ関数を用いて作成したそうだが、その結果は“燃える”という表現からは程遠いものになってしまったという。幸いにしてFLIPソルバーは“発火”の工程までシミュレートすることを可能にし、その結果、実写とまったく見分けのつかないリアリティをもつ炎が作り出された。そして、それはまさしく映画史上初の本格的な炎の流体シミュレーションが実現された瞬間となったのだ。

FLIP着目のきっかけから、発表まで

“Squirt”が新たに可能にした、流体シミュレーションによる表現のもう1つの代表例が、“爆発”という現象である。“爆発”も、気体の密度が瞬時に著しく変化することによって引き起こされる。したがって、これまでの映画VFXでは、“爆発”を流体シミュレーションで表現しようとは誰も考えなかった。だが、Double Negative社がVFXを担当した『天使と悪魔』(2009)のクライマックスシーンには、ストーリーの要ともなる“大爆発”が登場した。監督はこの“爆発”に対して、物語が実際にこの現実世界で展開しているかのごとく、観客に強く印象付けるようなリアリズムを要請した。そこでDouble Negative社は、この“爆発”表現に従来のパーティクルシステムなどを用いるのではなく、流体シミュレーションを用いることを決断したのだった。

密度の変化する流体にも対応できるFLIPソルバーは、この“爆発”という現象に関しても、物理的に正確にシミュレートすることを可能にした。また、『天使と悪魔』の爆発では“光”の表現も非常に重要で、爆発が放射した“光”が、周りの環境を照らしだす様子もリアルに描き出す必要があった。FLIPソルバーはパーティクルを出力するので、これらのパーティクルを光源に変換し、その光源によってシーンのライティングが行われた。Bridson氏が意図したとおり、FLIPソルバーを導入した“Squirt”は、流体シミュレーションを用いた映画VFXの新たな表現の扉を次々に開いていったのだ。

理論と映画VFXとの融合

数々の映画プロジェクトにおける“Squirt”の成功を目のあたりにしたBridson氏とNordenstam氏は、“Squirt”のコンセプトを生かしつつ、さらに新たな要素を盛り込んだ次世代流体シミュレーション・システムを構築し、これを市販ツールとしてリリースすることを思い立った。そして、2008年の秋にExotic Matter社を設立し、“Naiad”という流体シミュレーション・ツールの開発を開始した。

“Naiad”を支える2本の柱は、FLIPソルバーと、FLIPが出力したパーティクルから高速に滑らかなサーフェースを生成する、卓越したサーフェーサーである。このサーフェーサーも、Bridson氏の研究室から発表された論文がベースとなっている。また、前述したようにFLIPはパーティクルとグリッドセルを併用し、ナビエ・ストークスの方程式を解いてゆくのだが、基本的にはパーティクルが主体で、グリッドセルはその補佐役となっている。それゆえに、グリッドセルの細かさは、部分的に変えることもできるし、タイムステップごとに変えることもできる。“Naiad”ではこのようなFLIPの特徴を生かして、現在進行中のシミュレーションにおいて細かい計算が必要とされる部分でのみ、グリッドセルの分割を細かくする、といったコントロールもできるようになっている。インタフェースにも工夫が凝らされており、ユーザはグラフを用いて直感的に物理パラメータを操作できる。さらに、時期バージョンでは、レベルセット(Level-Set)の考え方をFLIPと融合させることが検討されており、これが実現すれば、サーフェースの生成能力が大幅に向上することになる。

現状では、映画VFXプロダクションが、“Naiad”の最大のターゲットユーザとなっている。すでにハリウッド映画の常連と言えるアメリカやイギリスの数々のCGプロダクションが使用を開始している。なかでもBridson氏が最も大きな期待を寄せているのがニュージーランドのWeta Digital社で、2010年の8月からは、同社のVisiting Professorも兼任している。

“Squirt”や“Naiad”の開発は、基本的にはBridson氏個人の志に基づいているのだが、これらのツール開発には同氏の研究室で編み出された方法の数々が反映されており、ツールを用いて作成された映像は、世界中の映画スクリーンに映し出されている。言うまでもなく、それは研究室の活性化に大きく貢献しており、さらには研究室を世界に向かってアピールし、優秀な人材を集めることにもつながるのだとBridson氏は語っている。そして何より、研究室のメンバーに、VFX分野の人々との交流を通した研究開発の楽しさを体験して欲しいという想いがあるようだ。Bridson氏の歩みを振り返ってみると、点と点を結ぶような人と人とのつながりが、常に新たな活動の原点となってきたことがわかる。それだけに、研究開発における人間どうしの交流を大切に考えているようである。

CG流体シミュレーションの分野ではすでに中核をになう存在になったBridson氏だが、歴史の長い流体シミュレーションのコミュニティ全体から見れば、まだまだ若手の新顔と言える。次世代CG流体シミュレーションの実現に向かう、Bridson氏の今後の活躍に期待したい。

Image courtesy:Exotic Matter AB


2010年に、"Naiad"を用いて作成された映画用映像。剛体シミュレーションで動くボートと流体との相互干渉も物理的に正確にシミュレートされており、泡や飛沫なども"Naiad"で作成して加えられている。